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akimof の日記

酔いどれアキモフは、電気羊の夢を見るか?

50代半ばの中2病は完治しない

学生時代は、クラスやらクラブで。社会人になっては、部署や会議、パーティや納会などと呼ばれるところに出入りを繰り返していると、「人の集まる場所」はつくづく動物園の「さる山」に似ているなと思う。

若かりし頃は、数十人、数百人程度のサル山なら、自分の能力や魅力を証明することなど簡単だと穿った気持ちでいた。自信もあったのだろう。権力闘争や人心掌握など、その手の四文字熟語ならどこからでもかかってこいといった気分だった。けれども、多くの時を経て、多くのサル山を経験していくにつれ、ちょっとした才能や知識、学歴や経験などをいとも簡単に凌駕する、「人の器」と呼ぶべき目に見えない何かが、実はサル山には作用していて重要であることに気づくことになる。

実力も魅力も兼ね備えている人の下には自然と多くのサルが集まる。そうかと思えば、たいした存在でもなさそうなのに、金や地位や、あるいは声の大きさなのかはわからないが、不可視の力を行使できる人の前にもサルが集う。もちろん、何一つ権力を所有していなくても、陽気で人を笑わすチカラを持った人気者にもサルは集まる。

「さる山」では、優秀な人間、善良な人物、人心を掌握する「器量」(フォース?)と呼ばれる基準で、人気の有る無しが現実的に目の前に現れてしまう。要するに「持っている」人が、山の頂上に近い方へ進めるのだ。ある集団で少しでも人の輪を大きくしたい、少しでも人間関係で上に行きたいと考える人にとって、「人が集まる場」というのは自身の能力や魅力を映し出す試練の時間になる。

山を下りて2年がたった。自分を強く(あるいは偏屈で)保っていなければ、ぽつんと一匹で夕焼けを眺めているのは辛いと思っていた。どこの群れにも属さないサルは早く死ぬという説もある。もともと「器量」を持ち合わせていないことに気づいてしまったこともあるが、目に見えない基準で争う山からは確実に下山してしまった。

運命論者みたいな発言をしたくはないけれど、大きな歴史のスパンの中で、何も「持っている」ことなもなく人生を終えてしまうことに果たしてどれだけの意味があるのか? そんな問いに酒を呑む晩があってもいいよね。

中2病は、50代半ばにもなると治りにくい病気なのかもしれない。