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akimof の日記

酔いどれアキモフは、電気羊の夢を見るか?

ポールの公演で「深み」とか「魂」について考えた

 

ポール・マッカートニー、71歳でのロックショー。盛り上がってました。多くの人がポールを観に行くというより、昔の自分に会いに行くといった感じだったと思う。

 

自分がどの時点のポールに出会ったかで、彼の音楽への受け止め方もそれぞれ違うだろうし、50年間も第一線で歌っているということは、いろいろな物語や思い出を生むということなんだろう。

 

1960年代のビートルズ武道館公演から、2013年の日本各地のドームを埋め尽くすなんていう所業は、ほとんど奇跡的。まるまる半世紀も経っているのに、何万人ものファンがつめかけるミュージシャンはそうそういないだろう。演歌などその国のローカルな音楽では長きに渡って人気を得る歌手は存在するだろうけれど、ワールドワイドな音楽史で考えると、20歳そこそこでデビューして、71歳まで世界ツアーを組める人物は数えるくらいしかいない。まさに、未踏の領域じゃないだろうか。

 

しかーし。何故か一部ではポール・マッカートニーの評価は低い。傍らにいたジョン・レノンが40歳で凶弾に倒れたという事実と、彼の作る<哲学的>な詩や、<魂>のこもった曲と歌声が、ポールの作る音楽と違いすぎるといったことが評価を下げてきたとされている。確かにポールの作る曲は、決め言葉を必殺のメロディでリフレインしているものが多い。歌詞も(本人はいろいろ語るが)政治性もなければ社会にプロテストするようなものはなく、いわゆるラブソングの範疇をでないものばかりだ。

 

なぜだか表現ジャンルというものは、どうしてもそこに意義を求めたり、<深い意味>を探したりするベクトルが働いてしまうようだ。スケートリンクでは氷は割れないが、湖では割れることがある。人はスリルを味わいその深淵を覗いてみたがる。悪くいえばそういった中2病的感性が、ごく普通の美しいものを認めずに、いや政治だ文学だ、愛だ、魂だといった諸々のことわりに走らせている。

 

ユーミンや小津安二郎の評価が一部ではずっと低いのも、同じ力学が働くからではないだろうか。常に人は「深み」や「魂」に囚われてしまいがちだ。そして平面的で美しいスケートリンクを見て、曰く、中身が無い、きれいなだけ、深みがない…とつぶやく。

 

本当にそうだろうか?「深み」だの「魂」だのというものは、表面に見えている事柄の<裏側>に確かに存在するものだろうか? 表面に見えている事実だけが、ある意味ですべてではないのだろうか。言葉や文字を持ち、知識を持った人類が陥った大きな罠が、このなんともいえない「深い意味」に囚われるということではないか。

 

ジョンのソロ・アルバムに「ジョンの魂」とつけてしまう感性が、おそらくポールの50年間の道のりを見えなくするのだと思う。「深み」がない、様式美を追求した映画を作り続けた小津が長らく評価されなかったのも、ある種の中2病ともいえる信仰が蔓延していたからではないだろうか。

 

ポールのコンサートで感じたことは、そこに見えている事実というものがいかに重要であるかということ。「深み」だの「魂」だのというものが、表面に見えている大きな事実にいかに弱いかということ。

 

(でも、ジョン・レノンが好きなのは、単に好き嫌いということで(笑))