akimof の日記

酔いどれアキモフは、電気羊の夢を見るか?

追悼 吉本隆明

吉本隆明が逝った。体系的に読んだことはないし、読んでもよく理解できていたわけじゃない。それでも本棚を眺めてみると10冊以上はあるので、一応はひとりの読者ということになるのだろう。

かつて文学者を中心とした反核運動が起きた時に、彼はその動きを批判してきた。反核・反原発・反エコロジーのスタイルは、今回の福島でも一貫して変わらず、原発再開の擁護に回っていたらしい。そういえば、オウム真理教の事件の時も擁護するような発言を繰り返していた。この独特な姿勢は世の中で物議をかもすことになり、いや「転向」だ「ボケ」だと言われる面もあった。

私は吉本隆明のシンパではないけれど、ここで彼を擁護しておきたい。もちろん、市井の人間に擁護されてもどうなるものでもないが。

彼は一貫して個人の自立と自前を主張していて、人々が無自覚に手と手を取り合って運動に結びついていくプロセスを嫌っていた気がする。思想信条の中身よりも、そこに至るまでに個人がどれだけ自前で考え思索し、逡巡してから物事への関与を決めたのか。やたらそういうことに、こだわっていたと思う。つまり、「その言葉はあなたの心と身体をきちんとくぐって出てきたか」、「借り物ではない言葉で語っているのか?」ということを問いかけ続けていただけではないのか。

かつて反核運動の署名やデモに関しては、欧州の最先端の知識を振り回して参加している文学者らを批判していた。オウムのバッシングの時も、批判するだけではなくそこにある闇を見つめようともがいていた。今回の福島原発問題でも、安易な反原発運動に対する流れには一言あったようだ。

おそらく、彼の中では、戦後から現在に至るまで、人間が「大きなもの」に離合集散する姿を見続けてきた結果、その時々に生み出される共同幻想に無自覚に埋没していく個人に対して、もっと自前で思考し、自己というフィルターを通した「個人の言葉」を発するべきだと挑発し続けていたのだと思う。「言語にとって美とはなにか」で、人類の発語に対する記述があったと思うが、まさに彼は愚直なまでに言葉の生まれる現場に居続けたような気がする。

自前の言葉によって選択することになる負の側面でさえ、人間の原罪と捉えて前に進むしかないと考えていた。いや、正負の概念でさえ恣意的なものととらえていたと考えるべきか。

おそらく彼は、左右だ賛否といった二項対立からもある意味で自由でいたプリミティブな思想家だったのだろう。「とりあえず、吉本さんどんなこと言ってるかな?」ということを人々に思われてしまうような稀有な人物。けして彼と同じ方向は指さない人たちからも、羅針盤のような存在として思われてしまう人物。そんな人物だった。

ご冥福をお祈りいたします。