akimof の日記

酔いどれアキモフは、電気羊の夢を見るか?

才能とか努力とかいいすぎ

「運も才能のうち」という言葉は、いつも才能を磨いている人ほど、突然に運が訪れた時に逃さないで捕まえることができる、という意味で最近は使われています。解釈の仕方はいろいろあっていいと思いますが、どうも50年以上も生きてみると、この言葉が腑に落ちない気がするのはどうしてなんでしょう。

今から30年以上前。大学という場で集った連中の現在に至る行く末を見てみると、才能とか運とか努力とかにまつわる言説が、どれも当たっていないのではないかと思えます。それほど、それぞれの人生にバラバラなことが起きています。日本の大学は偏差値と大学カラーで学生を集めているので、同じ大学に集まる人間の能力にはさほどの差はありません。しかし、そのような均質な空間で育った彼らのその後の人生が、かくも違うのかというくらい差を生んでいるのは、才能や努力などという言葉には収斂できない大きな運命とか人生とかの流れが働いているからではないかと感じます。

世の中でいうところのある一定の成功を収めた奴が、大学生の頃は他の誰よりも才能を持っていてそれを磨いていたという形跡はありません。逆に、仕事という面で転々としてけしてうまくいってきたわけではない奴も、他の人たちに比べて才能や努力を欠いていたわけではありません。ましてや、当時の感覚で、この人はちょっと優れているなと思った人でさえ、いわゆる社会的な成功からも遠く、どちらかといえば職を持つというより家にいて日々を過ごしているといった例もあります。

つまり「才能を磨いて努力すれば夢がかなう」という言説も、「運も才能のうち」という言説も、あるいは逆に「能力が報われないのは運のせいだ」という言説をとってみても、どれひとつも法則性がないんじゃない?というのが、50年以上を生きてきた感覚です。

確かに誰もが認める才能や大きな努力というものは存在しています。しかし古今東西、その成功した人達が自伝やらインタビューやらで、不断の努力やら才能の所在やらを語りすぎるために、この百年くらいで間違った神話が数多く熟成され、一人歩きして、若者やかつて若かった人たちを苦しめている気がしませんか。

本当は、才能がないことをいくら長くやってもうまくいきません。努力すれば何でもうまくいくというのは嘘です。運のあるとかないとかも、本当に適当なタイミングで起きている。たいして興味もないことで、さほど努力などしたことがないのに、ふとした出会いだけで一生のものになり成功することだってあります。

ただ、それを夢とか成功とかに結びつけてしまうことが間違いなのです。修正のきかないかのような運命に押し込めてしまうのが間違いなのです。もしも運というのがあるとすれば、単純に何かを持続させている時におきる「いたずら」のようなものでかありません。そしてそれが起こるかどうか偶然性もまた、その人の性格や人生観といった要素に多分に支配されているような気がします。

そのようにでも考えないと、いままでの神話のように語られている「才能、努力、運」などを前提とした話法では、30年後のどの人物の状態もキチンと説明してはくれないのです。ただ、本人に起こる偶然のいたずらとしか言えない流れだけがあるだけ。その足場のないあやふやさを受け入れにくいので、人は成功者の語る神話を導入して後付けの理由をこしらえているだけなのです。