akimof の日記

酔いどれアキモフは、電気羊の夢を見るか?

橋下さんの喧嘩ぶり

橋下大阪市長が、自らの改革に反対する知識人、大学教授らと論争を繰りひろげています。ここ数日間、テレビ討論を通じて森永卓郎教授、浜矩子教授、山口二郎教授らを論破したということで、ネットやユーチューブにその論旨や映像がたくさんあがっている。

橋下市政に関しては前にもブログで書いたので置いておくとして、この一連の討論について感じることがあるのでメモしておきます。

学生の頃、創作することを話題の中心に友人たちと居酒屋で議論しました。まあ、酒の入っている話なのでそもそもが他愛もない話なのですが、議論や酔いが進んでくるとその場を身も蓋も無い話にしてしまう人がでてくる。その言い分は、たとえば小説について語っている時には「そんなに批判するなら、じゃあ、お前が書けるのか?」だったり、バンドを組んでいる奴だったら「ステージに立ったことの無いお前に言われたくない」という発言だったりします。マンガの話しであれば、「お前は描けもしないのによく言うぜ」ということでしょうか。つまり、創作者でなければその内容を語る資格がないとでも言うように議論をかき混ぜ粉砕する人たちがいるということです。

これは、古くから続いている作家と批評家の関係についての議論と同じです。もしかして今も根強くあるのかもしれませんが、創作者はそれを鑑賞する人や批評する人より上位にあり、それを批評的に語る人たちは創作者になりたかったけれどなれなかった落伍者だという、根拠はどこにもない無意識に近い思い込みの議論に近い。

橋下市長の改革の内容はともかくとして、彼が一連のディベートで立脚している地点を考えると、なぜだか学生時代の居酒屋での議論を思い出してしまう。要するに彼は大学の教授や知識人たちに、「そんなに批判するなら、どうして自分でやらないの?」「じゃあ、あなたがやってみればいいじゃない」「じゃあ、選挙で勝ってみればいいじゃない」と突きつけて、身も蓋もないかたちで相手を粉砕しているわけです。机にかじりついている人と、現場にいる人間は違うという事実に基づいて。

確かに30年前の居酒屋でも、そういう人物がある意味で議論の「勝者」でした。このスタイルを取れば、その場の喧嘩に勝てるとわかっている人の論法。批評する側に目に見えないかたちで存在する「そうなれない自分」というルサンチマンさえ刺激すれば、相手は宙吊りの状態になることを橋下市長は動物的にわかっている。

夏目漱石に「私を批判するなら、一篇でも優れた小説を書いてみろ」と言われたらどうしますか? もちろん、漱石はそんなことを言うはずもないですが、そう言われたらどんな人でもいったんは、うぐっと声をあげるでしょう。そして冷静になって考えてみると、それがあまり意味のない論法であることに気づきます。

喧嘩に勝つことと議論を深めることは違う階層にあるわけですが、一方的にやられている大学教授や知識人たちを見ていると、そのことがまるで同一線上にあるように見えてしまい、なぜか「無能ぶりをさらけ出しているかのような」印象になる。その地点まで相手をもっていく喧嘩手法には、おそらく政治をやっていて同じ土俵にいる人物しか勝てないでしょうね。