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akimof の日記

酔いどれアキモフは、電気羊の夢を見るか?

「ともだち」って何だろう

「ともだち」とは何か。こんなことを言い出すと、ほとんど「中学生日記」のような話になってしまいそうです。ソーシャルネットワークの普及で、いまだに「ともだち」とは何かを考えさせられてしまうことについてひとこと言っておきたいと思います。

僕は小中高大学を通じて、同級会というものに出席したことがありません。出ないと決めているわけではなく、特に会って話しをしたいという気持ちにならないだけなのですが、理由はともかくこのことで偏屈なタイプとして扱われているやもしれません。さらに仕事でも、お酒の席には必要がない限り出席しないようにしています。

こうやって普段から人との関わりを淡白に過ごしている身から見てみると、FacebookGoogle+も、その運用に「ともだち」の範囲や知り合いを決めさせるメディアという面があるので、僕にとっては良くわからないネットワークなのです。ただでさえ現実のサークル的な活動が苦手な者にとって、ネット空間で「ともだち」が何をしたかを確認するとか、「ともだち」にいいねと承認をもらうことにいったいどんな意味あるのか、本当にわからない。

もちろん、そんな小難しいことを考えなくて、気軽にやればいいんだよという意見ももらいます。とりあえずみんな知り合いとして、お互いが何をやっているか知り合ってお互いを認め合ったら楽しいよというわけです。こういった意見に関しては、自分以外の多くの利用者が楽しんで<人脈>を広げるに活用していることに、特に異論はないですよと答えている。

ただ、「中学生日記」的にこだわっている点を言うと、おそらく、普段から特別に親しくもない(はずの)人たちと「ともだち」というくくりの中で気持ちや意見を共有しあうという行為に、うそ臭い同調圧力のような空気が漂うことが苦手なのだということはあります。有名人でもなく、特別な利害関係がないにも関わらず、何百何千という「ともだち」と何かを共有しあえるのがSNSだと言われてもピンときません。たぶん、こういったネット社会が生み出した幻想に惑わされないでいたいという気が強く働いているのかもしれません。

サークル化をはかるタイプの多くのSNSは、インタラクティブ性がそれらより低いブログやツイッターと違って今後も存在感を大きく増していくでしょう。WEB3.0と呼ばれて、ソーシャルを理解していかなければ仕事にもならないという時代が来るかも知れません。けれど、そういったSNSのスタートに地点には、「ともだち」という言葉を借りて進めてきた、人と人とは友として繋がりあうべきだという同調圧力や、「ともだち」という存在を多く獲得していなければ人生が不幸になるとでもいった幻想があることをきちんと感じていたいと思います。

テレビで取材していたので本当かどうかは知りませんが、いまの十代の子どもたちの携帯電話には、百や千の単位でアドレスを登録している子が少なくないらしい。会ったこともなくまともに名前も知らないアドレスが、その子の「ともだち」の多さにつながっているらしいのです。この現象の虚しさについては別に譲るとして、大人である我々もこの子供たちについて大きなことは言えない気がしませんか?