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akimof の日記

酔いどれアキモフは、電気羊の夢を見るか?

メメントモリ、モリモリ元気

最近、義理の両親と食事をした時、亡くなった父について尋ねられた。父の晩年に宗教的な支えはあったかどうかということを。

父は大学病院でがん治療を受けている時に、がんの告知はもとよりその手術法から治療法まで逐一知りたがった。担当医の説明があれば同席し、自分の体にもかかわらず、ここをこう切ってこう繋いでとか、ここに穴を開けてといったリアルな話しをまるで他人の身に起こることのように、移動用の点滴スタンドを引きずりながら聞いていたものだ。

おかげで家族は、肉親の生死に関わる話しだというのに、テレビドラマにあるような悲嘆にくれたシーンのように病気を語ることもなく、普段の生活と変わりなく父との会話を続けることができた。

義理の父母はそのような様子を見聞きしていたこともあってか、高齢の現在、おそらく自分たちの死生観を考えてそのような質問に及んだのであろう。父が自分の病気に精通して平気でいられたのは、強い信仰心でもないと説明がつかないという疑問から尋ねてみたくなったのだろう。

その時は外での食事中ということもあり、「宗教的な支えは全くなかった」とだけ答えた。

後で、ふと思い至りました。実は、亡くなった父は宗教や家族の支えどころか、はなから全く死ぬつもりなんぞなかったのではないかということに。強い精神力で治療を乗り越えようとしていたのではない。ある意味、鈍感ともいえる感覚で「死ぬはずがない」と確信していたのではないか。そうであるからこそ、見舞いに訪れる人々に自分の体を指し示しながら、いくぶん楽しそうに治療経過の説明を加えることができたのだろう。

メメントモリ。死を考えるあり方は人それぞれだ。怖くて何かにすがる人もいるだろう。一刻も早く死なせてくれと叫ぶ人もいるかもしれない。やり残したことの整理がつかない人も、「いまを感じる自分」を失う悲しみにくれる人もいるだろう。自分がどのような境地になるかは不明だ。それどころか、突然の事故で死の意識なく自分が消滅してしまうことだってある。

父の死が教えてくれたことはたくさんあるが、その死に方に関してもそのひとつ。いい意味で「鈍感」に生死を考え続ける力もあっていいということだ。

(コレハ、アル種ノ才能、ダカラ、マネデキナイ、カモネ)