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akimof の日記

酔いどれアキモフは、電気羊の夢を見るか?

「入力」し続ける人生

電脳の時代になったこともあり、なるべく情報を形のあるものとして残さない方向を向いて生きているのだけれど、やはり本やCDや映像ディスク類は増え続けるものだ。

とりあえず関連の職業に就いているわけでもないし、資料として必要という場面があるわけではない。ただ純粋に趣味として鑑賞しているだけでも情報パッケージは増えていっているのだ。目の前に積み上げられたマンガや書籍、DVDやブルーレイの山を前にして、まだそれでも足りないのかとテレビ放映される映画やドラマなどをせっせと録画し続ける家人と、ただ少し聴いてみたい読んでみたいだけの理由でCDや書籍を購入する僕との間で、お互いをたしなめ合うこともたびたびだ。

いままで購入した映画やCD、録画したコンテンツ、書籍やマンガを仮に「もう一度味わう」としても、もう残された人生の時間を計算しても追いつくことはないところまで集積されているのに、いまだに新しいものを増やし続けることの意味とは何だろう。

これは生活の余裕といった話ではない。専門として生業になっている人々、収集家・マニアと呼ばれる方々などに比べたら、我が家にあるパッケージは恥ずかしいくらいの分量ではあるし、住宅事情からどうしても一定量を越えた場合は廃棄をせざるを得ないのだけれど、ややもするとこの情報パッケージの類は置き場のないほど貯まり続けてしまうということを言いたいのだ。引越しのたびに相当量を売ったり廃棄したりしているにもかかわらず、少し油断すると部屋の床を埋め尽くしてしまうほどに貯まり続けていく。

成長期を迎える前の日本では、限られた人々だけが情報コンテンツを所有することができた。しかし今の日本においてはは、市井にひっそりと生きているだけの人であっても、あえて情報を拒む生き方をしない限りは、常に過剰な「入力」を強いられる時代だとつくづく感じる。ワンルームの中に、ぎっしりの「情報」と暮らしている若者も数多く居るに違いない。

これらを上手く「出力」するシステムを持つことが出来るようになれたら一番いいのだけれど、それはそう簡単なことではない。そもそもの「入力」を拒む勇気を持たない限りは、情報の過剰摂取でパンクしてしまうのが現代というものなのだろう。物や情報に支配されない生き方をするには、完全を求めずなんでも「中途半端」を信条に生活するしかないのだろうけど、これが本当に難しいことだと思う。