akimof の日記

酔いどれアキモフは、電気羊の夢を見るか?

「運命」と「偶然」

(500)日のサマー』という映画は、「運命的な恋愛」を信じる主人公の男が、「運命」なんてないと考えるスーパーリアルな女に恋をするラブコメディ。『インセプション』で味のある存在感をしめしたジョセフ・ゴードン=レヴィットと人気女優になろうとしているズーイー・デシャネルのふたりが好演している。

この映画を観て「運命」と「偶然」ということをちょっと考えてみた。

恋愛に限らず、多くの人は「運命」というものを信じている。それは人が「物語」を必要とする生き物だからだ。私たちはある特別な現象が自分の身のまわりに起きると、これを「運命」だと思うことでそこに至る過去とそこから続く未来に物語りをつけたくなる。特別な現象をたまたま起こった「偶然」の事柄にしてしまうと、これらの前後が断ち切られるために物語としての体裁を作れなくなるというわけだ。人生の時間が、たまたま起きる事象が断片的に重なり合って繋がっているだけと考えたのでは、生きる実感を持ったり自分の存在を納得させる時間の流れを身につけることができないということなのだろう。

本当にそうだろうか?

あなたに出会ったのも「偶然」、ここで事故にあったのも「偶然」、いまやっている仕事に就くことになったのも「偶然」、そこで金の成る木を見つけたのも「偶然」だとしよう。そして生まれてきたことも「偶然」だと考えたら、確かに人の人生は極めて現実的で味気のないものに感じられてしまうに違いない。

しかし僕たちは、このような「偶然」が重なり合うだけの断片的な人生を回避したいがために「運命」というドラマを発明し、そのジグソーパズルを埋めていく作業のように自分の身に起きた事柄をピースとしてひとつひとつはめ込んでいるだけではないのか?

「いま自分の周りに見えている風景は、たまたま偶然なんですよ」と言われると、いっさいの物語性が消えてしまうので、人は心の安定がはかれなくなる。しかし、本当に「運命の出会い」なんてものが存在するのかといったことを、『(500)日のサマー』という映画は考えさせてくれるのだった。