akimof の日記

酔いどれアキモフは、電気羊の夢を見るか?

さる山にて

約30年間も年末の納会や新年会を会社組織というところで繰り返していると、人の集まる場所はつくづく動物園の「さる山」に似ているなと思う。

1000人以上のパーティは経験がないけれど、2〜3百人程度の集会は毎年のように出ている。そこでは、一通りの挨拶が終わり立食の歓談タイムになると、あっちこっちで人の輪ができる。ボス猿の周辺はもちろんのこと、次をうかがう複数の猿たちのもとにそれぞれ仲間が集い、その輪を行き来するものもいれば、隅っこのほうでぼんやりしているものもいる。

実力も魅力も兼ね備えている人の下には自然と多くの人が集まる。そうかと思えば、たいして目をみはる存在でもなさそうなのに、お金や地位や声の大きさなのかは知らないが目に見えない力を行使できる人の前にも人が集う。もちろん、何一つの権力も所有していないけれど、陽気で人を笑わす人気者にも人は集まる。

政治や企業、スポーツチームを語る時には、昔からたくさん書かれているリーダー論なんぞを読まなくても、こういったパーティ形式の集会に出て眺めることでその内容のすべてが集約されているのじゃないか?

こういう「さる山」のシチュエーションは、実は残酷な一面がある。それは、どれだけ優秀な人間だろうが、どれだけ見た目に優れていようが、あるいはどれだけ優しくて善良な人物だろうが、人が集まってくる「器量」とも呼ぶべき基準で現実的に目の前で裁かれてしまうということだ。もちろん、同じベクトルを向いている集団におこりえる話であり、あらかじめこういった価値観のもとで生きていなければ何事もない風景にしか見えない。しかし、その特定の集団において少しでも人の輪を結び大きくしたい、あるいは少しでも人との関係で上に行きたいと考える人にとっては、自分の身に起きている人の集まり具合が自身の現実を映し出す辛い時間になるのだ。

そういった人たちにとっては、「さる山」を下りて暮らすのは骨が折れるに違いない。書店に行って経済本やライフハックのコーナーへ行ってみるといい。この経済社会の中でどのように暮らすかを語る本で溢れている。よほど自分を強く(あるいは偏屈で)保っていなければ、「さる山」でぽつんと一匹で夕焼けを眺めている場合ではない、とにかく人生をせっせと生きろと指南されてしまう。

僕はといえば、あっちの隅にもこっちの隅にいる、どこの群れにも属さない猿に声をかけて時間をやり過ごすのが、約30年間の習慣なのだった。自分自身がもともと「器量」を持ち合わせていないこともあるけれど、目に見えない基準で争うさる山からは確実にドロップアウトしている。

群れを離れて山を下りる猿は孤独死するといわれている。その事実さえ受け入れることができれば夕焼けを眺めて暮らす猿もいいものだと思う。