akimof の日記

酔いどれアキモフは、電気羊の夢を見るか?

「自炊」VS七人の侍

いわゆる「自炊」と呼ばれる書籍を裁断してデータ化する代行業者が、作家やマンガ家から著作権侵害として提訴された。訴えたのは浅田次郎大沢在昌永井豪、林真理子、東野圭吾弘兼憲史武論尊の7人。いずれも有名作家といっていいだろう。

iPadキンドルなどのタブレット、スマートフォンの普及で、出版物のデジタル化が進むといわれて久しい。アメリカでは紙の印刷物の販売量をデジタル出版が越えたことが話題となっている。日本では、出版業界全体が激しい抵抗をしながらも、水面下での必死の研究が進んでいる段階で、デジタル化がなかなか進捗していないのが現状だ。

この7人の侍。どうやら形としての出版物が切り刻まれて、文字や絵だけの姿になるのが辛いという話をしながらも、これを出版文化の喪失という大問題になぞらえてお怒りのようだ。しかし表向きの慨嘆とは別に、「違法」に自分たちの本がデータ化されデジタルデバイスに読み込まれることで、大量に複製されることを危惧しているだけのようにも見える。「ただでさえ本が売れない時代なんだから、コピーしないでくれ」というのが本音なんじゃないだろうか。

このデジタル化の流れの進み方は、音楽業界を思い浮かべるとわかりやすい。技術の進歩で、20世紀には生で演奏を聴くだけの段階からレコードへの複製が始まり、同時に塩ビを包むジャケットやパッケージも作られメディアとしてリスナーの元へ届けられるようになった。これがテープやCDという形を経てデジタル時代を迎え、ついにはパッケージを廃した音楽そのものをダウンロードする姿へと変えてきている。塩ビやCDを包んでいたパッケージを懐かしむリスナーもいるけれど、おおむね業界全体は、レコード会社もオーディオメーカーも、そしてリスナーも、新しい潮流のもとで急速な変化に対応してきている。

確かに、レコード・ジャケットのアートにミュージシャンのテーマを補足するイメージを求めるのと同じく、本の装丁や文字組と紙質、印刷技術の向上が可能にした優れたデザインと持ち重りのする存在感が、読書の大きな愉しみであることは否定できない。けれど、本来ならば作家が伝えたいのはそういったパッケージとしての出版物ではないはずだ。読者に伝えたいのは紙に記された文字列や絵に託された物語、そして彼らの表現が読み手の脳内に想起させる<内容>そのものではないのか。

自分たちが読者と共有しようとする作品を載せる器が、デジタル出版の時代においてはどのような表情を見せるべきなのか。このことを、出版社や編集者と模索していこうとするならまだしも、ただの「自炊」代行をしている業者(前提では個人で楽しむためのデジタル化を代行)を訴えるにいたっては、著作権うんぬん以前に、自らの営為を否定することにつながっていくとしか思えない。

著作権法では営利を目的に複製を行うことを禁止しているけれど、「自炊」は金銭で支払った対価物を自分で楽しむための行為であり、その代行者とは、面倒なデータ化作業を代行するだけのものだ。もしこれを禁止するのであれば、書店からもどされたり、出版社の倉庫に眠っている多くの書籍やマンガを裁断して再生紙にする行為も糾弾されなければならないだろう。

それとも、訴えた7人の著作は、いずれもそのような憂き目にあうことなく、すべて読者の書架にしっかりと納まっているに違いないとでもいうつもりだろうか。読者不在もはなはだしい。