akimof の日記

酔いどれアキモフは、電気羊の夢を見るか?

コクリコ坂を転がって。

2011年もアニメーションはジブリが強かった。宮崎吾朗監督『コクリコ坂から』は、10月くらいの時点で、日本映画の興行収入1位。前作に比べて評判も良くて、息子もやるじゃないかという声があちこちであがった。鈴木プロデューサーのメディア戦略だと思うけれど、宮崎親子の対立を際立たせつつ、そのプロセスをテレビや雑誌などで流すなど、映画そのものとは違うところで話題づくりにも注力していたね。熱狂的なジブリファンだけでなく、普段はアニメを見ない人まで巻き込んで、感動した人、傑作だ!と叫ぶ人を多く生み出して、公開当初はあまり批判を入れる余地がないイメージだったけれど、もうみんな落ち着いた頃だろう。

肝心の映画なんだけど、ほんとうにみんな面白かったのかな?残念ながら、僕はあまり面白くなかった。各シーンを上げていくときりがないので、(家人とは、ひとつひとつのシーンを上げて語りあったけど)、ざっくりとした印象を書いていくことにする。

全体的に、登場人物の細かい所作にこだわり、時代の風物などの考証に沿うあまり、演出が「寸止め」みたいになっていると思った。破綻を恐れたのかどうかは知らないけど、それぞれの場面で盛り上がるシーンもあえて淡々と処理しているせいか、なんだか几帳面な展開になっている。実写ならわかるけど、これはアニメーションだからね。喜怒哀楽のシーンや物語が動くシーンは、やや「無茶」だったとしても、それに説得力を持たせることができるのがアニメの良さなんだけどな。それを抑えて、盛り上がりを拒むような自制心が、おそらく全てのメリハリのなさを生んでいるのだ。おそらく意図的なんだろうし、その自制を声優にも求めた感じが見て取れる。

団塊の世代、あるいはもっと以前の旧制中学校などの匂いを映像に残そうとしているのはわかるけど、吾朗監督の興味や熱がないことが淡白な演出で見て取れる。古ぼけた建物に残された巣窟のようなクラブの部室、集会で議論しみんなが歌うシーン、女生徒が掃除に精を出すあたりなど、この年代の人に向けてのエクスキューズと通り一遍のノスタルジーになっていて、主人公たちの恋愛エピソードの背景としては成立しているのかもしれないけど、なんだか書割風でこそばゆい。(自分の時代を代弁している気がして、懐かしがる年長者の方々もいたらしいけど?)

物語のいちばん大切な核であるふたりの出自については、古典的なテーマとはいえ、おそらくどうにもならない切ない感情を強調したり、思いきり悲劇的にも、あるいは妖しさをまとって描けたりできるテーマのはずなんだけど、監督はここでも悲劇性を抑制している。登場人物たちは、事実を何事もないようにあっさりと受け入れ整然と動くし、脚本上はそう進むしかないとはいえ、けして画面上で大きく「震え」させたりはしない。

親子は映画に関係ないとはいえ、映画の宣伝として持ち出されてくるからあえて言う。父親は演出上の「無茶」や、画面上の「フェチ」がアニメーションでいかに重要かを本能的に知っているのに対して、息子の方は駄作を回避するあまり「お行儀がいい」作品を作ってしまっていると思う。だから、あんまり新しい才能が開花したとか、ジブリをしょって立つなどと持ち上げないほうがいいんじゃない?